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「お疲れ、難しいオペだったな」
詰め所に入った直樹を同僚の医師が笑顔で出迎える。そこには直樹の疲れた顔への同情も込められていた。
「急患の連絡はないから、今のうちに仮眠を取っとけよ」
「ありがとう、そうさせてもらう」
直樹が軽く笑い返すと同僚は笑顔で詰め所を出て行く。『笑顔は人間関係の潤滑油よ』といつだったか言っていた琴子を思い出す。琴子と出逢って以来、直樹が築いた周囲との壁はかなり低くなったのを直樹は実感していた。
誰もいなくなった室内で直樹はソファに寝転る。仮眠室に行けばベッドもあるのだが、ソファより疲れが取れると分かっていても行くのが面倒だった。
「あー…疲れた」
シンッとした室内に余韻が大きく響く。『暇』という単語が存在しない病院の激務、静かさとは無縁の賑やかな入江・相原家。直樹の周囲はいつも賑やかだった。静かな空間が好きだった筈なのに、いまはその静けさが直樹には落ち着かなかった。
(もう何日帰っていないんだ?)
グルリと首だけを回して壁に掛かったカレンダーを見る。
寒さを感じる季節になり、体調を崩して来院する人の数が日に日に激増している。直樹はずっと泊り込みを続け、ここ数日は24時間体制で増加する患者さんに対応していた。
(今日で四日目か…アイツ、どうしているかな)
再び直樹の頭に琴子が登場する。
直樹の妻である琴子は現在妊娠中。そうは言っても、琴子が生活に困っていないことは解っている。
結婚した直樹と琴子は夫の実家である入江家で暮らしている。さらにそこには琴子の父である相原重雄も同居している。入江家・相原家には嫁姑問題や婿舅問題など微塵も存在しない。
(やっぱりうちの家族構成って変だよな…慣れたけど)
愛犬のチビも含めかなり賑やかなメンバーが直樹の頭に浮かぶ。
(お袋は、俺より絶対琴子の方が好きだし)
娘を熱望していた直樹の母・紀子だったが、紀子が産んだのは直樹と裕樹という男児二人。一時期はその気落ちゆえ直樹に女装させたりもしていたが、とあるハプニングで相原家が同居してから紀子の関心は専ら琴子。夢見た娘のごとく、紀子は琴子を目に入れても痛くないくらい可愛がっている。
そしていまは琴子の腹の中にいる子が女児であることを神々に祈っていると、先日直樹は弟の裕樹から報告を受けた。
「コーヒーでも飲むか」
琴子や家のことを思い出していたら珈琲が飲みたくなった。
何をしても上手くいかない琴子だったが、そんな琴子が唯一美味く作れるのがコーヒーだった。今では直樹が好んで頼むほど、コーヒーは琴子の自慢の逸品。
病院にいる今はそれを望むことは出来ない。
直樹は何も言わずに出されるコーヒーと、その脇で嬉しそうにしている琴子の笑顔が無性に恋しかった。
「お袋の言う”夫婦の絆”ってこういうことか?」
気合一発。よっと声に出して身体を起こし、自分でコーヒーを淹れるために隣の給湯室に行ったが
「…嘘だろ?」
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