天は赤い河のほとりの二次小説で、カイルとユーリの子どもであるデイルが側室をもった理由です(オリジナル設定)。
アマ(Ama)はメソポタミア神話に出てくる女神の名前です。オリキャラがイヤと言う方は閲覧しないように注意してください。
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「姫様!アマ様!」
悲鳴のような声が耳朶を叩く感覚に意識が戻り、アマと呼ばれた少女の明るくなった視界では年老いた女性が泣いていた。
「婆や……いつもの、ことよ」
アマは痛む体を起こすと乳母に尋ねた。
「…父様は?」
「お出掛けになりました……しばらくお戻りにならないかと」
「また愛人の邸に行かれるのね…いい加減に側室に迎えればいいのに」
アマの静かな言葉に乳母は顔を歪めた。当時ただ一人の妻だったアマの母が愛人だった邸の下男と逃げてから、アマの父親はアマを虐待してきた。
「最近の旦那様の暴力は常軌を逸しています…いくら姫様がお母上様と瓜二つだからと」
泣きながら乳母はアマの顔の傷を濡れた布でぬぐう。かすかに布が皮膚を引っ張る感触にアマは顔をゆがめた。
「お前のせいではないわ…古傷がいたむだけだから」
そう言ってアマはその古傷のある下腹部を押さえた。この古傷ができた日を乳母はいまも忘れられなかった。
「皇族の血をひく姫の…いえ、女性を子どもの産めない身体にするなど到底赦されることではありません。姫様、このことを皇帝に」
「皇族の血といっても何代も昔のことよ…もう、いいのよ」
全てをあきらめている哀しい笑顔は十歳の少女の表情では無く、最近はこの小さな姫が死を望んでいることに乳母は気づいていた。
(それも仕方がないのかもしれない)
父親の気の向くまま、厭きるまで執拗に暴力を振るわれる日々。子どもとしての楽しみも一切奪われ、十歳に達する前に女としての幸せも奪われていた。
- ”アマ”なんて名前なのにね -
「アマ」はアッカドの出産・誕生の女神の名前。“幸せになって欲しい”と願ったはずの母親は夫から逃げ出し、妻に逃げられた父親は娘から全ての幸せを奪う。
(どうにかして姫を邸から逃がせないかしら)
使用人を最小限に抑えられた静かな邸を歩きながら、乳母が姫の救出策に頭を悩ませていたら、今日はやけに街がにぎやかだと気付いた。ちょうど会った屋敷に出入りしている使用人に問えば
「皇太子殿下が?」
「丘の上の市長の邸に数日滞在するようですよ」
乳母にとって天啓だった。
そして<それ>はあまりにも無謀な賭けだと分かっていたが、乳母は一縷の望みを捨てることができなかった。
(どうやって中に入れて頂こうかしら)
皇太子が来ているということで厳重な警備が敷かれて全ての扉がいつもと違ってしっかり閉められていた。正門にいた顔見知りの衛兵に用件を告げたが、丁重にだけれどしっかりと断れてしまった。
「こちらの邸に何か?」
どうしようか、と思いながら乳母はウロウロしていたから。不意に背後から女性に声をかけられた乳母が吃驚して勢いよく振り向くと、男の子に見間違えるような小柄な女性がいた。
(小間使いの女官かしら)
用件をただの女官に話すには抵抗があったが、他に手段もないと乳母は覚悟を決めて皇太子殿下に逢いたいことを告げた。
「皇太子、殿下に?」
女性の口ぶりは理由を問うようだったが、姫の父親は市の有力貴族であり、市町ともつながりがあったので姫を守るために乳母はかたくなに理由をいわなかった。
そんな乳母を女性は品定めするように観察したあとにっこり笑い
「私で良ければ案内しますよ」
そういうと女性は軽快に歩きだす。慌てて女性の素性を問いただしたものの、女性は何も答えず楽しそうに微笑み先を歩くだけだった。
衛兵もいない小さな門に近づいたとき、さっきまで静かだった邸内が一気に賑やかになった。
何かあったのか、と思った瞬間に目の前のやや廃れた門が勢いよく開き、驚いて目を白黒させる乳母をよそに兵士たち一団が駆け寄ってきた。隣の女性は動じることなく深く息をついたとき
「ユーリ様!!」
乳母も良く知る市長が慌てた様子で走り寄る。いつも主人に会いに来るときの尊大な雰囲気はすっかりナリを潜め狼狽しきっていた。
そんな市長を観察していた乳母も決して冷静ではなかった。そんな乳母をなだめるようにユーリは優しく彼女の背に手を当てて
「こんばんは、市長。デイルはいる?」
「勿論いらっしゃいますが…なぜ此処に?陛下は?」
「それよりも、デイルを呼んで頂戴。お客様なの」
にっこり笑うユーリに市長は慌てて指示を出し、兵士の一人にデイルを呼びに行かせた。
数分
ユーリに良く似た少年がすごい勢いで歩み寄ってきた。
「母上!! またおひとりで!?」
「大丈夫よ、迷子になる年じゃないし~」
息子のまくし立てる心配を笑っていなすユーリ。その姿は親子というより双子の様だった。
「無事だったんだから万事良しでしょ」
「それをイル・バーニの前で言えますか?」
「……それよりも! はい、あなたにお客様よ」
「彼女の話は私が責任を持って聞きます。貴女は迎えが来たらお帰り下さい」
「えー、私を追い返すの?」
「追い返します。この帝国の為にお戻りください」
「解かったわよ…………ちゃんと仲直りします」
「そうして下さい」
話しがひと段落したからか、デイルはずっと低頭していた乳母に視線を向けて要件を訊ねた。
「…助けて頂きたいのです」
そう言って乳母はゆっくりと自分が育てた大切な姫君の話をした。
「ユーリ様が新たに女官を連れ帰ったわ」
女官長のハディは朝から大忙しだった。その理由はユーリの傍仕えが増えたためだ。女官長として後宮の女官たちの人事はハディが担っている。
「彼女は私につくから、トゥーイはリュイについてくれる?」
「…解かりました」
ハディの決定に否と言えるわけもなく、納得は出来なかったがトゥーイは頷いた。リュイに従って後宮を歩いていると、他の女官のヒソヒソ話がトゥーいの耳に届く。
「新しい女官はデイル様の正妃候補ってはなしよ?」
「でもデイル様にはトゥーイがいるでしょ?」
「でも彼女…ユスラ族の生き残りなわけでしょ?」
「ああ、陛下も無碍には出来なかったってわけか」
訳知り顔で飛び交う噂話にトゥーイは歯を食い縛り、そんなトゥーイの頭をリュイは優しく撫でた。
「デイル様はお二人の御子よ」
あなたに黙って正妃を迎えるような真似はしないわ、とリュイはトゥーイを励ますように微笑んだ。そんなリュイの自信に満ちた表情と声に、以前ユーリがデイルを厳しく育て上げたと言っていたことを思いだした。
「噂をうのみにせず、デイル様かユーリ様にきちんと聞きなさい」
「なんで彼女が僕の正妃ってことになるのかな~」
後宮の噂話を聞いたデイルは呆気にとられ、天を仰いでトゥーイの膝枕に頭を降ろす。父が皇子時代を過ごしたこの邸はデイルのものとなっていて、恋人同士のふたりはここで逢瀬を重ねていた。
「僕はトゥーイ以外を正妃にするつもりはないよ」
「…側室も、もたないの?」
静かに問うようなトゥーイの言葉にデイルは目をむいて驚いて見せて
「当たり前だよ。陛下たちのことを考えてみろよ」
「あの方たちはいまでも恋人気分だ」とデイルは笑ったが、トゥーイはそんなデイルと同じように笑うことが出来なかった。トゥーイは今夜きちんと言うと決めていたから。
「私は、側室がいい…私に正妃は無理よ」
緊張で喉の奥に溜まった唾を飲み込み、乾いた喉を無理やり動かした。トゥーイの視線の先でデイルは驚いた顔をした。一方でデイルは自分の聞き違いに違いない、いつもの冗談で共に笑いあおうともおもったが、月に照らされたトゥーイの毅然とした表情に彼女の本気を感じずにはいられなかった。
「よ、皇子さん」
「…ラムセス陛下」
宴の最中に気さくに声をかけてきたエジプトの王にデイルは苦笑で応える。彼は父が心底毛嫌いしている人だが(それを母が宥める)、デイル自身はラムセスが嫌いじゃなかった。これもカイルの不機嫌の理由だが。
「あなたが来ると父の機嫌が悪くなるんですが」
「俺が愛しのユーリに逢う機会を逃すか」
名代を立てて欲しいという言外の願いはあっさりと無視される。
「そういうことを言うから嫌がられんです」
「本音を隠して耽々と狙った方が良いのかねぇ」
どこまで本気なのだろうか、と食えないラムセスにデイルは苦笑した。そんなデイルにラムセスは嬉しそうにユーリに似てきたという。
「目は父親似ですよ」
デイルが幼い頃に酒宴の席でラムセスはデイルを見ながら嬉しそうに言った。次いで「ユーリ似なら俺が父親でもおかしくない」なんて言ったものだから、あの日血の雨がワインに混ざりそうになり、以来こんなやり取りがずっと続いている。
「ムルシリ2世似なら姫を産めと言ったんだがなぁ」
「あなたの後宮には絶対に嫁がせません」
「冗談だ。俺が一番欲しいのはユーリだし」と、父が聞いたら剣を取りそうなことを平然と言う。そんなラムセスに苦笑しつつも、ずっと気になっていたことを聞く丁度良い機会だとも思った。
「あなたも父も、みんな母を欲するのですね」
「あいつは王の横に立てる女だ。望めば王にすらなれるだろう」
ラムセスの言葉にデイルは首を傾げる
「それはあなたの御正妃様もそうなのでは?」
「なれる地位ではあるが、あの女はそんな器じゃない。あの女に今のエジプトはまとめられない」
ラムセスはデイルの疑問を笑い飛ばす。ラムセスにとって、その正妃は王位の為に選んだ女で、彼は決して彼女に隣に立つことを求めてはいなかった。正妃も跡継ぎである皇子を産んだことで王妃としての役目を果たしたと思っていた。
「俺自身はそれでいいと思っている」
家や国のために嫁ぐことは貴族や王族の姫に染みついている教育だった。
「誰か正妃にしたい女がいるの?」
「いますが…彼女が了承してくれないのです」
「そりゃ賢明だな。良い女を見つけたじゃないか」
ラムセスの言葉にデイルは唖然とした。「なぜ自分と”結婚しないこと”が賢明な判断なのか」を解かりかねるデイルの表情にラムセスは苦笑した。
「あの2人はそれについて何て言っているんだ?」
「…彼女の判断を尊重すると」
「それだけ、か?まあ、特にユーリは言いにくいか」
「それで俺が貧乏くじか」とラムセスは苦笑したが、心底惚れた女に瓜二つな顔の懇願する表情に根負けしてその理由を説明することにした。
「お前の両親は国や民にとって理想的な王と王妃だ。二人はその期待に応える力も持っている。では、お前は?」
ラムセスの問いにデイルは言葉を詰まらせた。皇太子として必要な知識を得ているが、父のように王位を争うことも経験を積むこともないと分かっていた。いまヒッタイトは平和な時代を過ごしており、民も国もこれが永遠に続くことを願っている。
「あいつら相手じゃ勝ち目がないからうちも手を出さない」
「それは条約があるからじゃ」
「スキがあればいつだって反故にするさ。みんな笑顔で歓談していても腹の中は解からないもんだぜ」
ラムセスはデイルに現実を教えた。
「例えば、いまのお前がヒッタイトの王になったとき、俺はヒッタイトに攻め込む。俺はお前の両親と同じで勝機は逃がさない。あんな平和主義の戦上手相手は二度と御免だが、お前相手ならば十分うちが勝てる」
なぜいまヒッタイトが平和と言われているか、「オレも人が好いなぁ」と思いながらその平和を甘受する危うさをラムセスは厳しく諭した。
「お前は未だお前の親の片方にも満たない存在だ」
「それは解かっています…痛いほど」
両親への尊敬が高まるほど、自分への期待が重くのしかかっていた。
「そんなお前の隣に立つ女は並大抵の女じゃ務まらない」
「母上みたいな女性なら良いのですか」
「あんな女は砂漠の中の砂金粒並の存在さ。そう簡単に見つかって堪るか」
ラムセスはデイルの頭を小突く。
「惚れた腫れたで隣に立たせたら、その女は潰れるぞ」
「…なら一生私は独身ってことですか?」
ふてくされるデイルの髪をぐしゃぐしゃにしながらラムセスは笑い
「皇太子がそんなじゃ国が亡びるぞ?まあ、愛で滅ぶも一興だが、正妃と側室を選ぶといい。1人の女じゃユーリの代わりは到底無理だ」
「…彼女の言うことはそういうことだったんですね」
「これを女に言わせたのか?情けない奴だな」
「うちの愚息がお世話になったようだな」
「全く…俺に損な役回りをさせやがって」
デイルから見えない位置、柱の暗がりに隠れていた男女にラムセスは顔を歪め、ユーリからワイングラスを受け取った。
「全く子どものコイバナなんて疲れるだけだぜ。それも純愛」
「御礼。今年のワインは良い出来だから飲んでみて」
「お酌をしてくれるかい?」
ラムセスがユーリににっこり笑いかければカイルがその間に割り込んで
「私で良ければお相手しましょうか?」
「あんたとじゃ飲み比べになりそうだな」
「ワインは未だ未だありますから」とラムセスを引き摺って連れて行くカイルを苦笑して見送り、ユーリは回廊の柱に寄り掛かり物思いにけぶるデイルを見てため息をついた。
「そろそろ話をつけないとね…ふたりのためにも」
普通の母親ならばこんなことに悩まなかったのか、と意味の無い考えをユーリは頭から振り払った。
「きゃっ」
小さな悲鳴と水音にトゥーイは足を止め、声のした方に向かって走るとそこには1人の少女がびしょ濡れの姿になっていた。
「ちょっと、大丈夫?」
「ええ、あ、はい…ありがとうございます」
丁寧だがどこか不慣れに礼を言う少女。濡れた髪の影からトゥーイには見慣れた傷が見えた。トゥーイはそんな傷を昔連れて行かれた娼館でたくさん見たので、暴力や虐待のあとだとすぐに気付いた。
下手に傷を指摘したら彼女を傷つける
過去の経験からそれを知っていたから、トゥーイは何も気づかない振りをして散らばって濡れた石板を広い、偶然目にしたその石版の内容に驚いた。
「あなた、こんな難しい計算もできるの?」
「こういうの得意なんです」
そう言って少女は笑う。新旧合わせて様々な傷はあるものの美しい少女で、その目には利発な光が宿っていた。
(まるでユーリ様みたい)
活発な少年の様な凛々しい瞳がユーリに似ていて、ユーリの瞳にトゥーイは恋をしたときを思い出す。もしユーリが男だったら我先にと馳せ参じ、愛人でも何にでもなって傍にいることを望んだだろう。だからこそ分かっていた。どんなに望まれても、自分は王の横に立てる器ではないと。
(まるでユーリ様みたい)
奇しくもアマも同じことを考えていた。ユーリに出逢った日は、アマにとって人生最良の日だった。あの日の朝はいつもの様に死を願っていたのに、太陽の位置が高くなる頃にはハットゥサ行きの馬車に乳母と乗っていた。
最後にはアマの母の名を叫んでいた父。そんな父に怒りも憐れみも感じなかった。ただアマの暗い世界を照らしてくれたユーリと、そのユーリについて行ける喜びしか感じなかった。
「乾いた布を持ってくるから、それまでこれを掛けていて」
そう言ってトゥーイがかけてた厚い布をアマはふわりと体にまとわせる。一瞬見えた同情的な視線からトゥーイはこの体についた傷に気付いていると分かったが、他の人たちと違って過剰な反応をすることない優しさがアマには嬉しかった。
「初めまして、私はトゥーイ」
「初めまして、私はアマ」
この瞬間から二人は親友になった。
「御正室候補の姫君たちです」
イル=バーニの言葉と同時に着飾った女性たちが広間に入ってくる。元老院の一人が彼女たちの生まれ等を長々と読み上げていく。いくら良縁があるからとはいえ、遠路遥々来た姫君にデイルは労いと感謝の言葉を返す。ユーリに似てデイルは少年見えているものの、その物腰や知性の溢れた言葉に姫君たちは頬を染めた。
「絶対に私が正妃になるわ!」
後宮内を自室に案内されながら息巻く候補の姫君たちにシャラとリュイは小さく笑う。彼女たちは人に傅かれるのに慣れているのか、シャラとリュイがユーリの腹心と言うことも知らず自信や野心をおつきの侍女たちに熱く語っていた。
「あのときの騒ぎを思い出すわよね」
「懐かしいわ。ま、今回は殺人事件は起きないでしょ」
「馬鹿なこと言っていないで女官たちに注意を促して」
「「はい」」
姉・ハディの声にリュイとシャラは姿勢を正し、他の女官たちにテキパキと指示をだす。内容としては毒蛇やサソリに気を付けること、盗難騒ぎなどが起きるので警備の人員を増やすこと。そして一番大切なこと、姫君たちが争い始めたら放っておくこと。
「あまりに酷かったらユーリ様から注意していただくから」
「あの日みたいに”出て行きなさい!”って怒鳴るんじゃない?」
「それもまた一興よ」
「リュイ!シャラ! あんたたちが何を言ってるの!」
ハディの怒号に双子の妹が首を竦めると女官たちは笑い、その場の緊張が一掃された。
「後宮が落ち着くまでは時間がかかりそうね」
蜂蜜酒を飲みながら扉の外の騒ぎに耳を澄ますユーリにハディは苦笑しながら蜂蜜酒を足す。
「陛下のときも賑やかでしたね…不安でしたか?」
「不安が無かった訳じゃないけど、陛下が信じさせてくれたから」
照れる間もないほど、人前でもその愛情を惜しみなく表現してくれた。不安になる間もないほど、その腕で強く抱き締めてくれた。
「それがあの子には出来るかしら」
「出来ますよ…出来て欲しいものです、トゥーイの為に」
「…そうね」
ハディの言葉にユーリはトゥーイのことを想い、その快活な瞳を翳らせた。
「私が望んだことだとトゥーイは言っていたわ」
「仕方ない事です、誰が悪いわけではありません」
トゥーイに非があるわけではない。身分は低いことはユーリと同じで、正妃にとデイルとトゥーイが強く望めば考えることも出来た。でもそれをトゥーイは望まなかった。トゥーイは自分の力量を客観的に理解し、ユーリと比べて正当な評価ができるほどに賢かった。
「トゥーイは?」
「アマに蜂蜜酒を持って行かせました」
そう、とユーリがすまなさそうに月を見る頃にトゥーイも月を見ていた。
「飲まないの?」
トゥーイの杯が減らないことにアマは心を痛め、飲んで寝てしまえばいいのにと思った。
「そんな調子で明日から大丈夫?」
今夜は姫君たちも疲れているから、とデイルが後宮に来るのは明日からになった。本当ならばデイルの宮に迎えるべきだったが、父の代から使われていない後宮は老朽化しており正妃選びには宮殿の後宮をつかうことになっていた。
「…大丈夫じゃないと思う」
覚悟していたのに気が狂いそう、とトゥーイは組んだ膝に顔を埋めた。髪に触れる優しい手、身体に触れるちょっと冷たい唇。それを自分以外の女が知る。一時的なことではなく、これはずっとこの先続くことになる。
「覚悟が足りなかったかな」
「私は一生恋をしないから…解からない」
「下手に慰めようとしてくれないのが嬉しい」
そう言って月を見つめるトゥーイをアマは見ていた
今にも泣きそうなのに唇をグッと噛んで耐える姿を目にしても
(…解からない)
尊敬とか親しみは解かるけれど、他人に、それも男性に、愛情を抱いたことがアマには無かった。そんなアマを感情が欠如している欠陥品だと言って殴り続けた父。
こうして感情が無いのは父の所為なのか。幼い自分を置いて逃げた母の所為なのか。それとも元々こういう人間だったのか。答えは判らなかったがアマにとってはどうでも良かった。
アマはハディに付いて仕事をするのが楽しかった。ときにはユーリからも色々教わり、政治や経済を学んでいくことが楽しくて堪らなかった。
そんなアマをトゥーイはすごいと賞賛した。その純粋な賞賛が嬉しかった。ユーリやトゥーイに褒められたい、頼りにされたい。その気持ちがアマの全てだった。だからアマは決めていた。
「怒らないでね」
アマは寝入ったトゥーイに毛布を掛けると、暗闇に紛れてデイルの邸に向かった。次の日、デイルはカイルとユーリの元を訪れて元老院もいる場で正妃を決めたことを告げた。
「正妃を決めました」
デイルの宣言に多くの人が驚く。何しろ正室候補が紹介されて一晩しか経っていない。そもそもデイルは彼女たちと話してさえいない。
「誰に決めたのですか?」
「アマです」
挙げられた名前にカイルとユーリは驚いたものの、訊ねたイル=バーニだけは冷静だった。
「彼女のお婆様は皇族でしたから問題ありませんね」
「お、おい、イル=バーニ」
なぜお前は驚かない、とカイルは言外に訊ねたが、イル=バーニはそれには応えずデイルをジッと見つめる。デイルもイル=バーニをじっと見つめ返した後、ふっと表情を緩めた。
「これはアマのアイデアですね?」
「あなたには解かるんだね…入れ知恵したのもあなた?」
さあ、と肩を竦めたイル=バーニの笑顔にデイルは苦笑し
「イル=バーニは説教が怖いけど、やっぱり優しいね」
「陛下のときにすっかり慣れました」
姫君たちには速やかに帰国してもらいます、と彼女たちにとっては無碍な宣告もイル=バーニは引き受けてた。
「…アマ、本当にいいの?」
「ええ。私の願いもこれで叶うもの」
「あなたの願い?」
「あなたとユーリ様の傍にいること」
アマは申し訳なさそうなトゥーイに笑い
「デイル様ってユーリ様に似てるのに私は恋していないの」
「恋してたら、どうなった?」
「そんな仮定は無駄だよ」とアマは笑い、大きな傷の出来た下腹部を見せた。
「子供は産めないけれど、育てることは出来るわ」
そもそも白い結婚だから子どもも出来ないけど、とアマは笑う。
「だからたくさん産んでよね。最低でも男女一人ずつ」
「ありがとう」
トゥーイはアマの細い身体を抱き締めた。力を込めたらぽきりと折れてしまいそうな華奢な身体、そんな身体を傷つけないように優しく抱き締める。
(不思議ね)
今まで乳母以外の人間に触れられるのが苦痛だった。それなのに今は触れられても大丈夫な人が増えて、その温もりに幸せさえ感じられる。
「ねえ、トゥーイ」
ん?と応える声が身体に直接響く。その嬉しさにアマの目に涙が滲んだ。そんな感傷を吹き飛ばすためにアマはトゥーイの体に腕を回し
「ユーリ様にそっくりな子なら1人でも赦してあげるわ」
アマの言葉にふたりは同時に笑い声をあげた。
END
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