天は赤い河のほとりの二次小説です。イメージは小柳ユキさんの「あなたのキスをかぞえましょう」で、ユーリが死んだあとの話です。嫌という方は読まないように気を付けて下さい。
概要
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ハディが乾いた木の扉をそっと押すと、外のカラリとした空気とは裏腹に湿気混じりの空気がハディの体を包む。それが『彼女』のイメージには合わなくて、ハディは扉を大きく開いて乾いた風を招き入れた。
薄暗い空間に太陽の光が降り注ぎ、土の香りがする風が外のわずかな喧騒をまとって室内で渦を巻くと
「…ハディか」
中にいた男性の髪を優しく揺らす。太陽の僅かな光に照らされたのは、奥にある台座に腰かけるヒッタイト帝国の皇帝・カイル=ムルシリだった。
「締め切りでは空気がよどんでしまうので」
「…そうだな。少し開けておこうか」
自国ならず近隣諸国でまで『賢帝』と敬われるカイルはその精悍な顔を上げ、土のにおいが混じる風に小さく微笑む。会話をしていてもカイルの目はハディを見ておらず、悲しみのヴェールをまとったまま台座で眠る一人の女性を見つめていた。
眠っているのはヒッタイト皇帝唯一の妃であり、カイルの最愛の妻のユーリ=イシュタル。
この大国の正妃に相応しい衣裳に身を包み、キレイにまとめられていた髪が一筋風に揺れたが、そのまつ毛が動くことはない。彼女が動くことは二度となかった。
稀代の皇妃(タワナアンナ)と謳われたユーリは哀哭する人々に囲まれて永遠の眠りについた。それから数日たったが、ヒッタイト帝国は悲しみに包まれ続けている。
「これはジメジメしたのは嫌っていたからな」
搾り出されたカイルの掠れた声に頷きながら、「いつまでも悲しみに浸っていないように」といって微笑んでいたユーリを思い浮かべて同意する。
起きているよりも寝ている時間の方が増えてもユーリはいつも花が咲くような笑顔を浮かべていた。自分がいなくなった後も、目を閉じて思い出すのがその笑顔であることを願うように。
じわりと浮かび上がった涙を堪えるため、ハディはぎゅっと強くまぶたを閉じ、心の中で10まで数えてから1つ深呼吸して私情を締め出す。
「陛下、お食事をお持ちしました」
「ありがとう…あとで食べるから、適当に置いておいてくれ」
ユーリが亡くなって以来ずっと同じやり取りを続けている。カイルの言う”適当な場所”にハディが目を向ければ、昨夜運んだ食事がそのときのまま、手を付けられずに放置されていた。
「陛下…あれから数日、ですし…そろそろ何かお召し上がりにならないと」
「……そのうち、食べるよ」
気のない返事をするカイル。そのカイルの体は生きていて、生命を維持する活動だけのエネルギーも得られず頬はこける。生気を失い、その端正な顔立ちには暗い影が落ちていた。
(…私たちにはどうすることもできない)
ハディと同じくカイルとユーリの臣下は誰もが優秀だったが、そんな彼らでも悲しみに沈むカイルにかける言葉が分からなかった。いまのカイルは大国の皇帝ではなくただの男、最愛のものを失った無力な男だった。
ハディは黙って拝礼して神殿から出ると、神殿の壁に寄りかかって強く目をつぶる。カイルと同様に、ハディにとってもユーリはかけがえのない主だった。
いつも活発だった主は今もただ眠っているようにしか見えず、今にも目を覚まして「ハディ」とその声で呼んでくれそうだったから…夢をみてしまう。否、今が悪い夢だと思ってしまう。
目を覚ませばいつもの後宮で、朝の挨拶を受けながら女官長として多くの女官に指示をだしてユーリの部屋に向かう。早起きのユーリは既に目を覚ましていて
- おはよう、ハディ! -
いつもと同じ満面の笑顔で、鈴の鳴るような声で元気に名を呼んでくれるのではないか。そんな夢を見てしまえたらどんなに良いか。
「ユーリ……さ、ま…」
湿った涙の似合わぬ主だったから。唇をきつくかんで涙をこらえるハディの肩に温かい手が乗せられ、それが気の知れた妹たちの手だと分かったハディは涙をかくさず顔を上げる。
「リュイ……シャラ………」
水の膜の向こうに見えたのは自分と同じく涙で赤く腫れた目。自分と同じように哀しみに包まれる双子の妹たち。姉として赤子の妹たちと対面してから数十年、共にユーリの女官となりずっと一緒にいた双子の妹たちとは何も言わなくても分かり合えた。特に今は同じ悲しみに包まれていたから。
「……ユーリ様がもう恋しくて仕方がないわ」
3人にはユーリに女官として望まれてからずっとユーリを支えてきた自負があった。ユーリが皇妃となったその日から、皇妃の補佐役として帝国に尽くしてきた誇りがあった。
彼女たちの武力と知力をユーリはいつも必要と、「この女性陣の結束には私も敵わない」とカイルに言わしめるほどだった。強い彼女たちの涙声が乾いた空に吸い込まれていったとき
「ハディ」
「リュイ、シャラ」
自分を呼ぶ優しい声に3人が顔をあげると、カイルの側近であるイル=バーニとキックリが立っていた。双子たちの夫でもあるキックリが双子に歩み寄り、優しく2つの体を抱き寄せる。イル=バーニはハディの涙を袖で拭うと優しくその頭を叩いた。
「このような未来は誰にも予想できるものではなかった……できるわけない。まさか皇妃が皇帝より先にご崩御されるとは」
イル=バーニのいつも冷静な理知的な瞳が悲しみに揺れる。イル=バーニの頭に浮かぶのは初めて会った頃の未だ幼いユーリで、始めはその存在が気に入らなかった。ただの平凡な娘にしか見えず、その娘がカイルにもたらした変化に嫌な予感がした。
この頃からイル=バーニはカイルが皇帝になることを望んでいた。カイル自身もそれを望んでいることを知り、それの傍で支えることに誇りがあった。カイルの隣に立つのは相応の姫であるべき、そう思っていたがカイルはどんなに美しく聡明な姫君たちと触れ合ってもその心をみじんを揺らすことはなかった。
それなのにカイルはユーリの一挙一動に心を揺らし、慎重なはずのカイルに浅慮とも思える行動を起こさせた。頑ななカイルの心を動かしたのが何故ユーリなのか、正妃の資格がひとつもないユーリに苛立ちさえ感じた。
イル=バーニの落胆に似た焦燥を覆したのは他ならぬユーリだった。
ユーリを知るたびにイル=バーニの心には熱い希望が根付いた。ユーリをずっとカイルの傍に留めたい。その欲望にまかせて少々無茶をした記憶もあるが、あのときに流した涙以上の笑顔を最期までユーリは見せていたから罪の意識はない。
あのとき見た夢は、いずれ皇帝となるカイルの隣にユーリを立たせたいという夢は叶った。
同じ夢を抱いた多くの者を喪いながらも、生き残った者たちが命を賭してその夢を叶えた。皆で作った夢の国は大いに栄え、戦いのない国で民たちは安心して暮らし、皆で平和を享受した。
「この国の全てがカイル様とユーリ様の御子そのもの。哀しいのは我々だけではない。国中が”母”の死を悼んでいる」
イル・バーニの視線の先をみんなで見ると、神殿の正面広場にはユーリに手向けられた花の山があった。売られているような立派な花束もあれば、子どもたちが野原で積んできたような小さな野の花もあった。
ユーリの崩御を伝えてからずっと、ハットゥサの市民が絶え間なくユーリの眠る神殿を訪れた。その後は旅装の人々も来るようになった。誰もがユーリの冥福を祈って、心をこめて花を捧げていた。「ありがとう」という言葉を添えながら。
男も女も。幼い子ども老いた者も。貴族も奴隷も。平等を望んだユーリのために、皆が譲り合いながら神殿に花をささげる。
皆が永遠の別れを惜しむ。次の世もユーリと共に生きれるようにと祈りながら拝礼する。
悲しみを癒すように彼らの流す涙を乾いた地面が吸いこみ続け、未来を約束するように彼らの言葉は青い空に吸い込まれていく。ユーリは彼らの生き女神だった。
「ユーリ様は…俺たちの最高の皇妃だな」
「カッシュ」
「同じ時代に生きれて、誇らしくて、嬉しくて…悲しくて堪らん!」
「ミッタンナムア」
大きな身体のミッタンナムアが身体を揺らす。容姿に似合わず涙もろいミッタンナムアの広い肩を叩いてカッシュは天を仰ぎ、愛しい者を見るように目を細める。
「ウルスラ…ユーリ様はそちらに御着きになったか?」
光を降り注ぐ太陽に、カッシュが今もただ一人愛し続ける女性の姿が重なる。カッシュに思い浮かぶのは年老いた自分とは違い若くして時を止めたウルスラのはじけるような笑顔。
「ユーリ様がいらっしゃったからと言って俺を忘れてくれるなよ?ユーリ様のおそばでもう少し待っていておくれ」
ユーリとの再会を喜び歓喜の涙を流すウルスラの笑顔がカッシュには容易に思い浮かべられた。そんな愛しい者の姿にカッシュは嬉しそうに目を細める。
「見事な青空だ。神々がユーリ様の御帰還を御慶びのようだな」
イシュタルの名を冠し、戦女神としてヒッタイトを守り続けたユーリ。彼女は常に国民に対して優しく接し、粗暴でも赦された兵士に誇りを教えて改めさせ、権力者にはその身でもって自律を示した。
「しかし…還るのが早過ぎだ。これが貴女様の唯一の欠点となりましたな」
ミッタンナムアが太い腕で涙を乱暴に拭いながら小さく笑う。そんなミッタンナムアの肩を叩いたキックリは主であるカイルのいる神殿に目を向けて
「私たちの中では一番お若かったのに…我々全員が眠るのを見届けてから天に還っていただきたかったですな」
全員が見上げていた空に小さな影が舞い、ピーーーーっと聞き覚えのある指笛が響き渡る。全員が見開くその視界で空から羽を広げた鷹が舞い降りてきて、全員が鷹の行く先を見ると女性の細い腕があった。
「ユーリ……様?」
後光になって表情が見えなかったが、鷹を従えるその姿を何度も見てきた。皆がやはりこれは悪夢だったかと思った瞬間
「皆々様」
ユーリとは違う声が響き、霞が消えて視界がクリアになるとそこにいたのはユーリに似ているけれど違う笑顔を浮かべた女性が立っていた。その女性を彼らは良く知っていた。カイルとユーリの子の1人であり、唯一の姫のマリエだった。
「お久しゅうございます」
「マリエ様!お出迎えもせずに申し訳ありません!!」
マリエはカルケミシュ知事の従兄妹の元に嫁いでいた。カイルの願い通りある程度は淑やかに育った姫のユーリに似た快活な瞳は最愛の母の死で赤く染まっていた。
「御気になさらず。嫁いだ身とはいえここは私の生まれ育った王宮。案内なくとも大丈夫です……それが母様の教育方針でしたでしょう?」
- 皇族でも自分でできることは自分でやる。何でも人にやってもらっちゃだめよ -
マリエにとって生まれ育った王宮には想い出が溢れていた。優しくも厳しかった母・ユーリの声が次々と浮かんでくる。マリエの気丈な瞳に涙があふれさせ、母の眠る神殿に向かって優雅に一礼した。
- 君は早くハットゥサに行きなさい -
マリエの元に母が倒れたという連絡がきたのは、夫が治めるカルケミシュで動乱が起きて直ぐのことだった。動揺するマリエに夫は帰郷をすすめたが、マリエは深呼吸をして心を落ち着けると首を横に振り
- 例え…これが永久の別れとなっても、わたくしはこの動乱が治まったのをこの目で確認してから王都に行きます -
戦女神として崇められているユーリが倒れたと聞けば兵士は動揺する。地方の小競り合いとはいえ、被害を最小にすませるには兵士には万全の状態であって欲しかった。民を守り続けることが王族の義務であると子どもたちに教え続けたユーリの言葉をマリエは守った。
「遅くなったことお詫びは致しません。母様も同じことをなさったでしょうから」
まぶたをきつく閉じて涙を潰してから顔を上げる。
「カルケミシュの動乱は無事治まりました。夫は叔父様と叔母様と後からきます。母様。この国は今日も平和ですわ、ご安心なさって」
- よくやったわ、さすがカイルと私の娘! -
小さいころから大小さまざまな出来事を兄たちと共にマリエは母に報告していた。善いことをするたびにユーリは満面の笑みを浮かべ、惜しみない賛辞を贈ってくれた。叱るときも褒めるときも、ユーリは子ども相手と決して手を抜かなかった。
「でも……母様…いま一度、その御声で褒めて頂きたかったですわっ」
語尾に嗚咽が混じり、マリエは耐え切れずに両手で顔を覆った。マリエの泣く小さな声が空に吸い込まれると、その小さな肩に手が乗せられた。
「…ピアお兄様」
手の主は父・カイルによく似た次兄で、兄弟の中で唯一金色の髪をもつピアは母に似た妹の黒髪を優しくなでて微笑む。父似のピアだが、その優しい笑顔には母の面影があった。
「母上は最期までお前たちカルケミシュのことを御心配なさっていた。皆が無事で治められたときけばお喜びになったはずだ」
妹の髪を撫でながら、ピアも母のことを思い出していた。マリエは母によく似ていて、ピアにとって最愛の女性の影が容易に馴染む。
- ピア -
ピアはユーリに名前を呼ばれることが好きだった。
兄や弟のようにやりたいことがあるわけでなく、妹のように皇帝家の繋がりを強める働きもできそうにない。そんな自分が皇族、それも『皇子』と呼ばれる身であっても良いのかと悩んでいた。
そんなピアの心情を理解していたのか、みんなに「皇子」と呼ばれる中でユーリだけがただ「ピア」と名前を呼んでくれた。母の前では兄妹だれもが望まれた存在だと感じられることができた。
- 待てないこと……マリエに謝っておいてね。褒めてあげて、私の代わりにたくさん、ね -
死の床でもユーリは強い瞳をしていた。
「頑張ったね、マリエ」
あの母の強さの何分の1かは伝わってくれただろうか、と静かに涙を流す妹を優しく抱き寄せて妹の慟哭をその胸で吸い取った。
「兄様…デイル兄様とシンは?」
「兄上は出来る限り政務を代行している。私たちも手伝っているが、やはり兄様の負担が大きくてね」
「…お父様は?」
「ずっと神殿に…あのときからずっと。ひと時も母様の傍を離れようとしないんだ」
ピアの回答はマリエにとって意外ではなかった。母がいないと父が生きていけないことは子どもたち全員感じていた。それほどまでにカイルはユーリを愛していた。
「いま父上の体は生きているが心は死んだも同然だ」
- しっかりしなさい! -
怒りながらも仕方ないって感じで。ときにはカイルを叱って立ちあがらせて、常に前を向かせていたのはユーリだった。
「大丈夫だよ」
安心できる声にピアとマリエが振り返ると、長兄のデイルと末弟のシンが共に歩いていた。10代の頃はデイルが一番ユーリに似ていて、大人になって男女の差は出たものの、その声も優しい笑顔も、まるで「大丈夫」とユーリと言われたようだった。
「ユーリ……マリエが到着したようだよ」
扉の向こうから聞こえる子どもたちの声に、カイルの口元が数日ぶりに緩む。そして手を伸ばし、ユーリの黒髪にその長い指を絡めた。
「ユーリ、子どもたちは怒っているぞ?………私も、怒っている……いや、違うな。途方に暮れている。こんな役立たずを遺してどうする」
小さな声で囁きながら、カイルはユーリの髪をゆっくりと梳く。
「皇帝の補佐が皇妃の役目とお前は言っていたろう?お前が先に死ぬなんて……私を一人遺すなんてりっぱな職務放棄だぞ?」
生来の生真面目な性格ゆえか、カイルとケンカしても、育児に疲れても、ユーリは公私をきっちり分けて滞りなく政務を行っていた。そんなユーリを間近に見ていたから、カイルは首を横に振って自分の言葉を否定する。
「お前は今でも私が正妃に求める、全てを満たした女だよ」
幼いときからただ一人の姫を探していた。戦いのない平和な治世を目指し、同じ目線で国を一緒に治めることの出来る女を探し続けていた。
「初めて逢ったときのことを覚えているか?……今も思う。少年と見間違えるようなお前を………まさかこの私がって」
異世界からユーリが来た頃、カイルは姫君たちの間で浮名を流していた。思わせぶりな目線と甘い声を贈れば、才色兼備の彼女たちは容易くカイルの腕の中に落ちてきた。
「あのころのお前はいつも怒っていて…私を毛嫌いしていた」
出逢ったそのとき、助ける為とはいえ承諾を得ずに口づけた。潔癖な少女だったユーリはそれを長い間赦さなかった。
- 私は氷室が好きなの! -
- あなたなんて大っ嫌いだ! -
過去を思い出して脳に響いた妻になる前の少女だったユーリの言葉にカイルは眉間にしわを寄せて苦情を申し立てる。
「あれは…まあ、私が悪かったが………私の寝所で他の男の名を呼んだのはお前だけだぞ?」
カイルは喉の奥でくつくつと笑いながらユーリの髪を何度もすく。いまみたいに何の憂いもなくユーリに触れられるようになったのは、それからずっと後のことだった。
「お前を愛してると…自覚してからが辛かった」
- 日本に還して -
「お前との約束なんて…忘れてしまいたかった」
ユーリは異世界の娘。この世界に来たのは前皇妃だったナキアの陰謀だった。ユーリは贄だった。末の皇子である自分の子を皇帝の位につける為、他の皇子たちを呪い殺す為にナキアはユーリの首から流れる血を欲した。
- 私がお前を日本に還してやる -
最初は自分の命を守るための約束。それはすぐにカイル自身の心を殺す約束になった。ユーリが還れなくなるたびにカイルは複雑だった。ユーリが自分のもとに残った嬉しさと、次のときも還す気になれるかという不安が渦巻いていた。
「でもお前は…選んでくれた。私を、この世界を……私と共に歩む未来を」
愛しているから幸せになって欲しいという思いだけでユーリの手を離したのに
- カイル!! -
戦に集中できず傷を負ったカイルの元に明けの明星を背負った戦女神としてユーリは再び舞い降りた。そしてユーリはカイルの傍に残り、この赤い土に眠ることを誓った。
「私はお前に逢えて幸せだった。愛して、愛されて……それで幸せだった」
カイルは一度躊躇ったあと口を開く。言の葉に乗せるのはずっとカイルの胸に巣食っていた不安。
「お前は本当に幸せだったか?」
カイルの知らない『ニッポン』という未知の国から来たユーリ。カイルとこの地で生きると決めてからユーリは『ニッポン』を懐かしむことはなかったが、子どもたちやカイルにせがまれて時折『ニッポン』のことを話してくれた。
『ニッポン』のことを知るたびにカイルはそれまでの謎が解けていった。
鉄を当然のように知っていたユーリ 。鉄の精製は最先端技術で、製鉄法では他の国より先を行くヒッタイトの者でも鉄を知らない者の方が圧倒的に多い。
「お前は女神じゃなくて普通の女だったのに」
皆が恐れ、多くの者を死にいたらせた伝染病さえユーリはうつらなかった。患者に触れてもユーリは無事だった。
「普通の、人間の女が神のように不死なわけないのに」
ずっと胸に救っていた思いが堰をきったように止めるられずに吐き出されていく。ユーリを喪った日からずっと認めたくなかった事実が圧し掛かる。
「もしあのとき元の場所に戻っていたら…お前はもっと長く、長く長く生きられた」
一緒に作ってきた思い出を心から締め出そうとしても、カイルの名を呼び花のような笑顔を咲かせるユーリの記憶は薄れなかった。
「この世界に来ていなかったら……私たちは出会わなければ良かったのだろうか」
もう笑顔を浮かべることは無い、穏やかに眠るようなユーリの頬をカイルが撫でると
「父上、それ以上言うと母上が本当に怒りますよ」
突然の声に驚いて神殿の方を見るとユーリに似た長子の姿。長子は妻によく似た顔の中で唯一自分に似ている瞳に怒りを灯していた。
「父上……母上はあなたと共に居られて幸せだといつも仰っていた笑っていたじゃないですか!…でも今は怒っていますね」
とっさに王宮の方をみるカイルにデイルは首を横に振って
「政務のことではありません。この事態は誰もが予想していたことでしたから」
カイルの愛妻家ぷりは国内に留まらず外国諸国にも有名だった。「ユーリ(妃)がいなければ昼も夜もない」と言われるほど、カイルにとってユーリは不可欠な存在だった。
「怒っているのはさっきの言葉です。『逢わなければ』なんて聞いたら……泣きながら激怒されますよ」
ユーリの怒った声がカイルの脳内に響く。「仕方ない人ね」なんて甘さのない純粋に怒った声だったから、そういって怒るユーリはその大きな瞳からボロボロと大きな涙を流したから、「すまない」とカイルは眠るユーリに謝った。
「父上。アマを正妃に迎える前の夜……母上が私に仰ったんです」
- デイル、二人を精一杯愛してあげてなさい -
母一人を妃とした父と違う自分の行動についてそれまで母に問うことはなく、デイルはずっとユーリは快く思っていないと感じていた。
- だから最近私を避けていたのね。そんな風には思わない……あなたに直接言わなかったけれど、私もそうするべきだとずっと感じていたわ………私が異質、贅沢なだけなのよ -
あのときのユーリは泣きそうな顔をしていた。デイルが知っている母はいつも自信に溢れていて、こんな心細そうな自信なさげな母を初めて見た。
- 他にも、もっと後ろ盾のある有力な姫君を迎えれば……この国はもっと早く平和になって……亡くす人ももっと少なかったはず -
無かった未来を想像して哀し気に顔を歪めたユーリは母でなく女だった。高価な宝飾品を強請る様に、豪華な離宮を強請る様に、『カイルのただ一人』でありたいとユーリは願った。
「私は贅沢な女なのだと母上は笑っていましたよ」
「…なんでそう言うことを私に言わない。息子に言ってどうする」
カイルの知らない母子の会話を知って、カイルは眉をひそめて眠るユーリに文句を言う。愛情表現が得意なカイル。愛情表現が苦手なユーリ。そんなユーリだからこそ、ユーリの熱烈な愛の言葉はかなり珍しかった。それをユーリの口から聴きそびれたカイルは本気で悔しそうにデイルを睨んだ。
「……そんな顔をして…そう言われましても」
苦笑するデイルの横から出てきた末っ子のシンが台座に歩み寄り持っていた花を母に添えながら楽しそうに笑った。
「母上は本当にご自分を解っていませんね。母上は他の姫君には決してできないことをなさった。あなたこそがどんな姫君よりもこの国にとって有力だったのに」
シンは添えた花の花弁を優しく撫でると幼い頃に歴史を学んだときの衝撃を思い出す 。勝利に溺れた大国が驕り、他国に攻め入りやがて迎える最期の侘しい国の歴史だった。
「私は戦争を知りません……この先も知られずにいられればどんなに良いかと思います」
人々の楽しそうな笑い声を聴こえる。この国は平和だった。素直に花を美しいと感じられる平和な世界でシンたちは生まれて育った。
「そうか」
子どもたちとは違い、カイルはこの半生をずっと、戦場と政治の世界でずっと戦い続けてきた。しかし、カイルはいつも独りではなかった。前半は異母弟のザナンザが、後半ではユーリが常に隣にいてくれた。
「お母様はお幸せでしたわ。お母様は私たちが大好きでしたもの」
- 唇は私似。耳はカイルに似たのね -
楽しそうにマリエの体のあちこちを観察していたユーリの、愛おしそうな嬉しそうな笑顔がマリエの脳裏に思い浮かんだ。
「それもこれも、私たちが愛するお父様との子だからですわ。…皇帝陛下、内戦は無事に治めました。御二人が作った平和を壊す真似は赦しませんわ。夫である知事も義父母とともにこちらに向かっております。」
マリエの芯の通った気丈な瞳にユーリの面影が重なり、ユーリと自分の意志はきちんと根付いていることをカイルは感じた。何とはない日常、夕日に照らされた王宮のバルコニーで王都を見ていたユーリを思い出す。
- 家に点く灯りって平和の象徴だよね -
「お前たちの中に、私の中に…そしてこの国に」
「偉大な皇妃で私たちの自慢のお母様だもの」
マリエの言葉にカイルが開け放たれた扉の向こうを見れば、ユーリに花を供えるために行き来する人たち。兵士たちも幼子をつれた女性たちも、みんな優しい微笑みを浮かべて通り過ぎていく 。
「お母様はこの時代に生きる人全ての心に残りますわ」
「母上は皆に愛されていました。父上だけでなく、この時代のこの国の全員が母上を皇妃にと望んだんです」
「賢帝と名高い自慢のお父様。お母様に誰よりも愛されたお父様ならそろそろ……解かるはずですわよね」
マリエの言葉にカイルの瞳に数日ぶりに強い意志の光が宿り、そんな目をして立ちあがった父王に満足したデイルはピアに笑いかけると、ピアは頷き粘土板をカイルに差し出した。
「父上…これを母上から預かりました。父上が動き出したら渡して欲しいとおっしゃっていました」
「お母様は何でもご存じね」と笑うマリエの声を聴きながらカイルは飾り気のない粘土板を受け取る。表にも裏にも奥妃の印章がなかった。
「お母様はお父様に全身全霊で愛されていることを最期の最後まで御存じでしたのね。一国の皇帝をここまで愛して、愛されて、これで不幸な女なんていやしませんわ」
苦笑する兄弟たちの背を出口にいざないながらマリエは微笑んだ。
「お父様はお母様からのお手紙を読んでからいらして?お母様のお部屋で、お母様との思い出話を教えてくださいな」
マリエの声は彼女の母親でありカイルの妻である最愛の女性の声にとても良く似ていたから
「喜んで貴女の誘いを受けさせていただきますよ」
子どもたちそれぞれが愛妻の面影を残す笑顔をカイルに向けて、そんな子どもたちが神殿を出て行くとユーリの傍に腰を下ろす。そしてユーリが眠る棺の角に粘土板を打ち付けると、相変わらず不器用な文字で書かれたカイルの名が割れた。
「お前には色々なことを教えたが…字だけは上手くならなかったな」
妻の癖のある文字を目で辿った。
カイルへ
私は幸せでした
あなたに逢えて
あなたに愛されて
愛するあなたとの子どもに囲まれて
とても幸せでした
そして
ごめんなさい
先にこの赤い土に眠ることを
どうか許して下さい
あなたがいつかこの地に眠るときは
必ず迎えに行くわ
ずっと待っているから
たとえ何十年の時が経とうと
私はあなたを待っているから
迎えに行ったら
あなたの腕で強く抱きしめてね
愛しているの言葉の数だけ口付けしてね
また二人で
最高の恋をしましょう
ユーリ=イシュタル
「待っている…か。まさかお前がそんなこと言うなんてな」
カイルは溜め息とともに天を仰ぐ。カイルの知るユーリはジッとしていることを知らない女だった。真綿で包んで後宮の奥で大事に愛したいと願っていたのに、不正のうわさを聞き咎めれば周囲の止める声も聴かずに飛んでいく。例えそこが敵地だとしても迷いなく飛び立っていく。
その姿はまるでひばり。いつも何処に飛んでいってしまうか解らない女だったのに。
「そんなお前が…私を待っていてくれるのか……そうか」
カイルはそっと目を閉じて、ユーリの唇に自分の唇を優しく重ねる。
「必ず迎えに来てくれ。私がお前の隣に眠る、そのときには必ず」
動かないユーリの冷たい唇にカイルは目を強く瞑り、熱い吐息を吹きかけながらつぶやく。
「でも、お前との口付けがもう恋しい。これから何度、私はお前との口付けを独りで思い出すのだろうか」
カイルの頬を涙が一粒伝い、切なさを振り払うようにユーリから顔を背けてカイルは少年のように手の平でグイッと頬を拭って
「ユーリ…いや、ユーリ=イシュタル姫」
カイルは深呼吸をひとつすると、後ろに一歩下がり片膝を付いた。婚姻の誓いをしたあのときのように
「我が最愛の姫である貴女にここで誓おう。生涯ただ一人、貴女だけを愛すると。そしてこの命が続く限り、私は貴女が眠るこの土地を守り続けよう」
台座から落ちているマントをカイルは手ですくい上げると、口づけを落としてするりと落とす。
「愛しているよ…今までも、これからも、お前だけを」
カイルは立ち上がると何かを振り払うように自分が纏ったマントを翻し、そして神殿の出口に向かったところで
- 待っているから -
いつもそばで聞いていた優しい声に、思わず乾いた木の扉にあてたカイルの手の動きがとまる。しかし振り返ってみるも何も変わらなかった。
そう。どんなに哀しくてもこれが現実だった。悲しみの直ぐに想い出に変わるものと分かっていても、カイルは眠るユーリに微笑みかけて思いを紡ぐ。
「ユーリ、逢えたらまた二人で恋をしよう」
大きく開いた扉の外に一歩足を踏み出す。太陽にカイルが目の上に手を当てると
後ろで木の扉が閉まった。
「ユーリ…愛しているよ」
カイルは閉じた木の扉に正対し乾いた木にそっと額を付けた。
「何度でも何度でも…私はお前に恋をする。お前ただ一人をずっとずっと愛し続ける。だからゆっくり休め…私を迎えに来るその時まで」
END
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