薬師寺涼子の怪奇事件簿の二次小説で、泉田視点です。泉田と涼子は恋人同士で少々艶っぽい表現があります。
2018年12月に発売された「白魔のクリスマス」ネタが出てきます。
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「はぁ、落ち着く」
畳のい草の香りで肺を満たし、思い切り深呼吸する。
私の中の日本人のDNAが歓喜する。
学生時代の友人の結婚式への参加に合わせて4日間の休暇をとった…が、式の1週間前に結婚話が白紙に戻り休暇の用途がなくなった。
予定を入れずにのんびり過ごすことも考えたが、長い休みなど社会人になって久しい。職業上まずない。そう思うと「何か予定しないともったいない」と貧乏性の私は旅行の計画を練り始め、都心から適度に離れた温泉地で4日間過ごすことを決めた。
―危険なオシゴトだったのよ!手当てはしっかり請求しなさい!―
己の起こしたトラブル分もしっかり請求する上司のお陰で財源に余裕はある。だから少し格の高いところを2人分予約した。そう、2人分。
「とりあえず温泉に入りましょうよ」
私の思考と視界に割って入ってきたのは絶世の美女。神様の不公平の産物としか思えない代物…化け物ではない、多分。
栗色の髪を背景に、猫のような大きな瞳に私の姿が映る。
彼女の名は『薬師寺涼子』。
先ほど述べた“ちゃっかりした上司”、そのひとである。
なぜ休暇に上司と温泉旅行に来ているのかといえば
「部屋の風呂に一緒に入ろうか」
そう、こういう理由である。
傷みの一切ない艶やかな栗色の髪を除けながら、そのきれいな頬に手を当てれば彼女の頬に紅色がさす。
思わず喉の奥から笑い声が漏れて、逃がさないように俺は立ち上がると彼女の腰に腕を回す。
「あ、あの…」
『上司の彼女』は大胆無敵で怖いもの知らず。躊躇なんて言葉を笑いとばすひとだ。
しかし『恋人の彼女』は俺の言葉に頬を染め、恥じらいを見せて躊躇する。
このギャップに、俺だけが見られる彼女に、俺は完全にはまっているけれど、男としても年上としても余裕を見せたいので理解のある振りをする。
「先に行ってるよ」
屈みこんで火照っている頬に唇を押し当て、脱衣場に行くと手早く浴衣を脱ぎ、しばらくすると俺は丁度良い温度の湯船に浸かってた。日頃酷使している筋肉がほぐれていくようだ。
僅かに硫黄の香りがする湯に白く輝く月が浮かんでいる。
うん、これぞまさに日本の温泉。
この風情に再び日本人のDNAが歓喜した。
カタン
脱衣場から微かに聞こえた音に目を向ければ、刷りガラスに室内の照明で縁どられた涼子のシルエットが映る。
湯の落ちる音に合わせて、布がすらりと細く伸びた腕からふわりと落ちる。大きな長方形の黒い影が美しいシルエットを隠したあと
カラカラ
静かにゆっくりと戸が開いた。
「…前はどんなに誘惑しても一緒に入ろうとしなかったのに」
前?
ああ。
彼女の言葉に以前、彼女の自宅のバスルームでのことが浮かぶ。あのときの私は女王の謁見中の新兵のような気分でしかなかった。
「“あれ”、誘ってたのか?」
「…ロウラクするのに時間がかかるわけだ」
「なら、今からロウラクしてみる?」
涼子が不貞腐れたから揶揄ってみれば、俺の提案に目を軽く見開く。そして俺の顔から揶揄いだと察知した涼子は紅く染まった目元で俺を軽く睨んでから洗い場にある椅子に腰かけた。
タオルを外すとその肢体が月光に照らされて、その白い肌は真珠のように輝いた。
ああ、これ以上美しい景色はないと思う。
俺は黙って彼女の肌を湯が滑る光景を鑑賞していたが、最後の泡が名残惜しそうに彼女の肌から石畳に落ちたとき、俺は湯船から立ち上がった。
洗い場で驚く涼子に湯を爆ぜながら近づくと、戸惑う彼女を抱き上げて湯船に戻る。
ふたり分の体積に、大量の湯が湯船から石畳を流れた。
「温泉ってさ、【アレ】を思い出さない?」
緊張をほぐすためだったのだろう。
石畳の上を走った溢れた湯が排水口に吸い込まれる音が途切れる頃に、涼子は場を茶化すように言った。
…シチュエーションが悪い。
もちろん、あのときはこんな甘美な雰囲気は一切なかった。
しかし頭にはしっかり【アレ】、あの“ナメクジ(もどき)”が浮かんだ。
ああ、嫌だ!
俺は吸い付くような肌に顔を埋め
「ロウラクして【アレ】のことは忘れさせてくれ」
彼女の唇を俺の唇でふさぐ。
湯が弾む音と静寂が良いバランスだけが俺の耳に届く。
遠慮するように月が雲に隠れる頃。
「せっかくのお月見だったのに」
疲れを隠し切れない甘い声に、しっかりロウラクされた俺の脳から“あれ”は消えていた。
END
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